Claude Rivière
クロード・リヴィエール
クロード・リヴィエール(Claude Rivière 1882〜1972、本名、アリス・エドウィージュ・ブランAlice Hedwige Beulin)は女性冒険家、ジャーナリスト、作家であり、フランス租界の仏語ラジオ放送局長であった。
タヒチ、ハワイで長く暮らした後に、ハワイアン音楽の興行主となり、アジア各地を巡業した。1935年、上海に定住し、フランス語ラジオ放送(FFZ)のパーソナリティを勤めた。1938年には仏語ラジオ放送「芸術と文化」局、Station radiophonique française Art et Cultureの局長に着任、彼女のトーク番組「マダム・リヴィエールの談話」は広範なテーマと巧みな話術で人気を博した。
リヴィエールの数奇な生涯は第一次世界大戦で夫を亡くしたことから始まった。カズナーヴCazenave使節団に随行し、米国でLa Franceという名の新聞の編集者として働いた。その後、ソルボンヌ大学で文学を学び教授資格を持つ彼女は米国の名門大学、ブリンマー・カレッジにてフランス文学の教員になり、続いてホノルルの大学でフランス文学の教員となった。
彼女が原住民のダンスに興味を持ったのは、初めてのハワイ旅行の際で、そこから彼女は太平洋の島々の魅力にとり憑かれた。彼女は何度も長きにわたり南洋の島々を旅行した。知識人であり、芸術的審美眼をもつ彼女は、画家、ゴーギャンの足跡も追った。
南洋の島々を訪れ滞在した後、ホノルルに戻り、ハワイアン・ダンサーのタウ・モエ・ファミリーを連れて極東を訪れている。1929年、東京でマダム・リヴィエールのハワイアンというグループ名でコロムビアからレコードを刊行した。
上海のラジオ局FFZの音楽番組はシャルル・グロボワがディレクターとして良質の啓蒙的プログラムを特徴としていたが、リヴィエールもフランスで大量のレコードを購入するなど、ラジオ番組のために貢献した。また、ル・ジュルナル・ド・シャンハイ紙に数多くの紀行文や文学、音楽、美術、映画などについての本格的な記事を執筆し、文才を示した。それらの記事の底辺にはアジアに対する深い理解と共感、文化への敬意が読み取れる。
リヴィエールは1938年、北京に軟禁されていたピエール・テイヤール・ド・シャルダンと出会い、その後、テイヤールと交流を深め、書簡を交わし続け、最晩年の1968年、この往復書簡を出版した(EN CHINE AVEC TEILHARD, 1938-1944)。
フランス租界ではラジオ放送を通じて戦時下の厳しい検閲のもと、文学、美術、音楽、紀行、探検、歴史、女性特集など幅広いテーマをリスナーに届けた。それはテロや爆撃の恐怖におののく租界の住人にとってオアシスのような時間を提供した。
1949年にパリに戻るが適応できず、ニースに移り大学(Centre universitaire méditerranéen)で教えながら著述活動を続けた。奇しくもグロボワと同じ1972年1月に90歳の天寿を全うした。葬儀で弔辞を読んだのはテイヤールの盟友でありともに北京での軟禁生活を過ごしたルロワ神父であった。
参考文献
井口淳子 2022「女性冒険家とラジオ放送 : 上海フランス租界のクロード・リヴィエール」『中国の娯楽とジェンダー:女が変える/女が変わる 発信・享受する娯楽』、25-41、東京・勉誠出版。
馬場智也 2023 「上海で育まれた友情 : クロード・リヴィエールとテイヤール・ド・シャルダンの出会い」榎本泰子・森本頼子・藤野志織編『上海フランス租界への招待 : 日仏中三か国の文化交流 』東京:勉誠出版、139-153。
井口淳子


