Introduction
Shanghai French Concession
上海フランス租界とは
アヘン戦争後、1843年に開港した上海には、イギリス(1845)、アメリカ(1848)、フランス(1849)の租界が次々に設置された。租界は各国の人々にとって自由貿易の拠点であり、宣教の足がかりでもあった。港湾や道路の建設、行政や警察機構の整備も外国人によって行われ、租界は治外法権で守られた「中国の中の外国」として発展していった。
1863年に英米両租界が合併して共同租界を構成すると、フランスは参加せず、独自の行政機関(のちの公董局)のもとで租界運営を続けた。共同租界(1899年に拡張して国際共同租界となる)が大商人らの自治を特徴としていたのに対し、フランス租界は本国政府のコントロールのもと、植民都市として拡大した。
上海のフランス租界は、フランスが中国国内に持っていたどの租界よりも大きく、極東における一大拠点だった。イギリス資本主義に対抗するため、フランスはカトリックの宣教や、学校・病院の建設など、ソフトパワーを前面に押し出す政策を採り、共同租界より優れた生活環境が整備された。1930年代頃までには、フランス租界は文教地区・高級住宅地と見なされるようになり、上海の上流階級・富裕層は国籍にかかわらず好んでそこに住むようになった。
上海フランス租界のもう一つの特徴は、ロシア革命から逃れたロシアの上流階級や芸術家たちが難民として流入したことである。彼らの多くは教養としてフランス語を身に付けていたため、フランス租界は生計を立てるのに好都合だった。白系ロシア人たちは自らの文化伝統の保存と伝承に力を入れ、演劇やバレエ、オーケストラなどの公演を盛んに行った。こうした芸術活動は、中国近代文化の形成に少なからぬ影響を与えたほか、上海を訪問した日本の文化人・芸術家たちをも魅了した。
上海が「東洋のパリ」と呼ばれたのは、共同租界の経済的な繁栄と、世界の人々を受け入れる懐の深さに加え、フランス租界で培われた文化・芸術の土壌があったからである。しかし太平洋戦争開戦(1941)により、日本軍は共同租界に進駐し、フランス租界も日本軍の実質的な支配下に置かれた。1943年、日本の傀儡である汪精衛政権に対し、ヴィシー政府はフランス租界を「返還」した。共同租界とフランス租界が名実ともに中国側に返還されたのは、1945年8月の終戦によってである。約100年にわたって繁栄した「中国の中の外国」は、こうして歴史の舞台から下りることになった。
榎本泰子
科研基盤B
「上海フランス租界(1849-1943)の文教活動に関する多言語で領域横断的な研究」
https://kaken.nii.ac.jp/grant/KAKENHI-PROJECT-24K00102/
研究課題/領域番号:24K00102
研究代表者
野澤 丈二 早稲田大学, 教育・総合科学学術院, 准教授
研究分担者
榎本 泰子 中央大学, 文学部, 教授
井口 淳子 大阪音楽大学, 音楽学部, 教授
趙 怡 関西学院大学, 経済学部, 教授
森本 頼子 名古屋音楽大学, 音楽学部, 非常勤講師
藤田 拓之 大阪産業大学, 国際学部, 准教授
二村 淳子 関西学院大学, 経済学部, 教授
学谷 亮 中央大学, 文学部, 准教授 (00801979)
LEROUX Brendan 法政大学, 国際文化学部, 准教授
研究期間 (年度)
2024-04-01 – 2027-03-31
キーワード
上海フランス租界 / 文化政策 / 比較文化 / 西洋音楽史 / グローバル・ヒストリー
研究開始時の研究の概要
上海フランス租界(1849年ー1943年)が「日本・フランス・中国三か国間の文化交流」において果たした役割を明らかにする。国家の文化・外交政策と民間(教育者、芸術家、宣教師など)の文教活動に焦点を当て、上海フランス租界を舞台とした国際的な文化交流の実態を明らかにする。フランス外交史料館所蔵の史料を中心に、中国国内の档案館所蔵の関係史料、上海で発行されていた仏語紙、ロシア語新聞など、従来の上海租界史研究や日仏文化交流史ではほとんど利用されてこなかった史資料を重点的に調査・分析する。上海フランス租界が欧州と日本、あるいは東アジアとの文化交流の重要な接続点になりえていたことを実証的に解き明かす。