Le Journal de Shanghai
フランス語新聞 Le Journal de Shanghai(1927-1945)
上海には幾つかのフランス語新聞が存在していたものの、いずれも短命に終わり、比較的に長く刊行されたのは宗教色の強い『レコ・ド・シーヌ』(L'Echo de Chine,1897〜1927.6,『中法新彙報』)だった。その廃刊後に一般向けの日刊紙として新たに創刊されたのは『ル・ジュルナル・ド・シャンハイ』(Le Journal de Shanghai,1927.12.〜1945.3.『法文上海日報』)である。初代主筆はアヴァス社に勤めていたフォントノワ(Jean Fontenoy,1899〜1941、中国名黄德楽)であったが、2年後に離職。以降は副主筆だったモレート(Georges Moresthe, 生没年不明)が主筆を務めた。発行部数は2000部近くあり、購読者はフランス人居留民のほか、フランス語を解する白系ロシア人や中国人なども加わる。販売先は上海だけでなく、北京、広州、香港から、日本、仏領インドシナ、フランス本国まで広がっていた。紙面の構成は戦時下大きく変わるが、普段は8ページ前後であり、日曜日は写真と特集記事が多く、12ページ前後となる。パリ祭とクリスマスには大型特集も組まれる。
この新聞の独自色を挙げると、まず何よりもフランス租界における政治、軍事、居留民の日常生活、文化教育の各方面についての詳細をリアルタイムで報告している点である。すなわち先行研究の少ないフランス租界を知るための重要な情報源にもなる。
そしてもう一つの特色は豊富な文化欄である。とりわけ図版を多くつける日曜特集では、世界各地の紀行文から、文化芸術(映画、演劇、音楽、美術)、文学作品を紹介する長文(二面、時には三面以上にわたる)が多く掲載されており、その質と量においては文芸誌にも遜色がないほどである。しかも中国、日本を含むアジア文化を紹介するものも多く含まれている。それは常に自国民中心主義的な傾向を示していた上海の英字新聞や日本語の新聞からは見られない現象だった。
その理由としては、中仏両国の政府間で行っていた一連の教育文化の合作事業が実り、比較的に対等な文化交流が実現できたことが挙げられる。租界の教育総監を長年務めていたシャルル・グロボワは新聞の理事であり、自らも「上海の音楽」と題する欄を設け、音楽評論を書き続けた(詳細は井口紹介文)。フランス語ラジオ局の局長を務めたクロード・リヴィエールも重要な執筆者の一人であり、アジア文化を紹介する数多くの長編記事を発表している。いずれも文筆が美しく、情報が豊富かつ確実であり、アジアの文化と人々を愛する情の深さも行間から溢れ出ている。執筆陣には中国の著名な文化人も多数加わった。曾仲鳴による漢詩のフランス語訳、傅雷による中国美術と音楽評論、徐仲年の中国文学の翻訳シリーズと中国文化紹介、馮執中による中国近代演劇紹介・・・いずれも時代の先を走った文化人であり、彼らの参入がむろん新聞が発信した中国文化の正確さと深さにもつながったのである。
一方、リヴィエールをはじめとする女性陣の活躍も際立っている。 徐仲年の妻だったSuzanne Hsu /Suzanne Roubertie(1903〜?、中国名は胡書珊)、Renée Tchao、Genevière Desmaisons-Maoらの女性記者は、中国各地の社会風俗から、美術、映画、演劇などに至るまで精力的に紹介している。彼女たちが描いた画家、徐悲鴻、林風眠、京劇役者梅蘭芳、映画女優、王人美などの人物像は、いずれも友人として内部からの観察に基づいたため生き生きとしており、その中国理解の深さも、日本人を含む外国人旅行者が書き残した多くの浅薄な「印象記」とは一線を画している。
1941年12月、太平洋戦争の勃発により共同租界が日本軍に進駐され、英字新聞もほぼ休刊に追い込まれた。その中で、日本とヴィシー政権との良好な関係によって『ル・ジュルナル・ド・シャンハイ』は停刊を免れ、交戦国以外の視点を提供し続けた西側のメデイアとしても重要な意味を持つ。日本文化に関する記事は戦前から多く見られていたが、この時期に至るとさらに増えた。その多くは、駐リヨン領事の父とフランス人の母を持つキク・ヤマタ(Kikou Yamata, 1897〜1975)によるものであり、アイヌ民族に関する紹介から、歌舞伎、生け花、美術、能楽、文学と多岐にわたっている。
1943年7月、フランス政府が租界を汪兆銘政権に「返還」し、実質的に租界全体が日本の統治下に置かれ、『ル・ジュルナル・ド・シャンハイ』も日曜特集を中止した。1944年4月より紙面が縮小し、印刷の質も一段と劣悪になった。新聞の終刊は1945年3月10日、日本軍がフランス租界を占領した時とされている。
なお現時点で知られている新聞の所蔵状況は以下である。
①フランス国立図書館(BnF):1927年12月−1940年5月。ウェブサイトにて公開。
②上海図書館徐家匯蔵書楼:1927年12月−1944年3月。
③京都大学文学研究科図書館:1942年4月−1944年11月。ウェブサイトて公開。
また後続紙としては以下の三つがある(共に上海図書館徐家匯蔵書楼所蔵):
Le Courrier de Chine(1945.9.〜1946.12.『中法日報』)
Courrier de Chine(1947.1.〜6.『中法週報』)
Bulletin Français Hebdomadaire(1947.6.〜1949.9.『法文週刊』)
参考文献
趙怡
・「研究上海法租界史不可或缺的史料宝庫――《法文上海日報》(1927-1945)」、馬軍・蔣傑主編 『上海法租界史研究』第2輯、上海社会科学院出版社、2017年12月。
・「上海租界のフランス語新聞が報じた中国映画とスターたち」、中国ジエンダー研究会編『中国の娯楽とジェンダー』勉誠出版、2022年3月。
・「上海租界のフランス語新聞: Le Journal de Shanghaiが報じた日本文化」、関西学院大学言語教育研究センター『言語と文化』25号、2022年3月。
https://kwansei.repo.nii.ac.jp/records/30208
・「上海租界のフランス語新聞にみる近代中国美術――林風眠と杭州国立藝術院を中心に」、瀧本弘之・戦暁梅編『近代中国美術の辺界』勉誠出版、2022年5月。
・「上海租界のフランス語新聞Le Journal de Shanghai(1927-1945) ――文化欄を支えた多国籍の執筆陣」、 榎本泰子ほか編『上海フランス租界への招待』勉誠出版、2023年1月。
趙怡





