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Theatre and Radio

劇場文化とラジオ放送

 フランス租界の劇場文化の中心はライシャム・シアター(Lyceum Theatre)である。1867年に英国人がアマチュア・ドラマティック・クラブの公演場所として英国租界にロンドンの名門劇場の名を借りて建設したが、後にフランス租界に移設され、三代目の劇場が今日なお営業を続けている。席数こそ340席(当時)と多くはないものの音響にすぐれ、典雅な外観、豪華なロビーや客席は租界随一の劇場として多くの歴史的公演の舞台となってきた。

 そして、この劇場は工部局オーケストラと上海バレエ・リュスの本拠地でもあった。他にロシアオペラ、オペレッタの団体や1940年代になると中国話劇の舞台ともなった。

 工部局オーケストラは共同租界の工部局(行政組織)が管轄する税金によって運営される公的オーケストラであり、創設当時、「パブリック・バンド」と称されたブラスバンド時代より欧州人が指揮者をつとめていた。しかし、その水準はと言えば、ヨーロッパと比べるまでもなく、フィリピン人など各国の団員による寄せ集め集団であった。1919年、イタリア人ピアニスト、マリオ・パーチが指揮者に就任すると欧州からすぐれた演奏家を引き抜き、楽団の水準をアジア随一と称されるまでに引き上げた。特に、亡命ロシア人やユダヤ系のメンバーが加わると、ショスタコーヴィチやストラヴィンスキーなど同時代の作品を演奏できるほどの実力を示した。楽団は夏季を除く10月から5月までのシーズン中には毎週日曜日に定期演奏会を開く他、バレエやオペラの伴奏を務めた。

 オーケストラと並ぶ劇場の花形として「上海バレエ・リュス」が挙げられる。当時の正式名称は「Le Ballet Russe」、この名にはバレエ史に燦然と輝くディアギレフのバレエ・リュスの後継カンパニーであるという自負が込められている。1934年11月にロシア人によって旗揚げされ、実質11年余りの活動期間であったが、工部局オーケストラが毎回伴奏を勤め、ミハイル・フォーキン振付作品をはじめとする演目は40作品を数え、公演回数は200回をゆうに超えていた。つまり、毎年毎シーズンごとに新たな作品に取り組んでいたバレエ団である。税金で支えられていたオーケストラと異なり民間団体であるが、戦争末期にストラヴィンスキーの《火の鳥》や《ペトルーシュカ》をライシャム劇場で初演し、ディアギレフ、バレエ・リュスの演目《シェエラザード》や《アルミードの館》が本格的美術と衣装150着を揃え、オーケストラ伴奏によって再演を重ねていた。このバレエ団の唯一の日本人ダンサー、小牧正英が戦後持ち帰った楽譜によって1946年、東京、帝国劇場で《白鳥の湖》全幕初演が実現し、大成功を収め、そこから戦後の日本バレエ史が始まった。

 上海には劇場以外に映画館、ダンスホールが林立し、特に高級なダンスホールではジャズバンドが軽快なダンス音楽や流行歌を生演奏していた。1940年代になるとハリウッド映画に代わり中国映画に大ヒット作が生まれ、1945年、戦争末期の李香蘭の大光明大戯院(グランド・シアター)でのリサイタルは服部良一編曲の《夜来香幻想曲》が熱狂的な三夜連続公演を成功させた。このように日本国内と異なり、戦時下であっても上海の劇場は活況を呈したまま日本の敗戦の日を迎えた。

 

参考文献

井口淳子 

2019 『亡命者たちの上海楽壇 – 租界の音楽とバレエ』東京:音楽之友社。

  1.  『流亡者们的乐坛 – 上海租界的音乐与芭蕾』(彭瑾訳)上海:上海音乐学院出版社。

榎本泰子 

2006 『上海オーケストラ物語 ─ 西洋人音楽家たちの夢』 東京:春秋社。

榎本泰子

2009『西方音樂家的上海夢 ─工部局樂隊傳奇』(趙怡譯),上海辭書出版社。

大橋毅彦、趙怡、榎本泰子、井口淳子編

2015  『上海租界與蘭心大戯院 — 東西藝術融合交匯劇場空間』2015、上海人民出版社(電子版2019年)。

ラジオ放送


 上海では、1923年にラジオの放送が始まり、中国、アメリカ、イギリス、ソ連、日本など各国のラジオ局が開設された。フランス語のラジオ放送が始まったのは1932年で、第一次上海事変を受けて上海にやってきたフランス人兵士に娯楽を提供することを目的としたものだった。上海事変が収束すると、ラジオ局は上海アリアンス・フランセーズに引き継がれ、1932年8月に「アリアンス・フランセーズ・ラジオ局Station Radiophonique de l'Alliance Française」(コールサインはFFZ)として再スタートした。1935年には、フランス人ジャーナリストのリヴィエールが入局し、のちに局長に就任した。また、グロボワがFFZの芸術監督に就任した。1938年には、ラジオ局名が「フランス・ラジオ局 芸術と文化Station Radiophonique Française Art et Culture」と改称され、いっそう充実したプログラムが組まれるようになった。フランス語新聞『ル・ジュルナル・ド・シャンハイ』には、ほぼ連日にわたり、FFZの詳細な番組表が掲載された。放送時間はおおよそ正午から23時までで、音楽、ニュース、語学講座、「リヴィエールの談話」など、多岐にわたるプログラムが放送された。
 「リヴィエールの談話」は、FFZの名物番組の一つだった。FFZの局長となったリヴィエールがパーソナリティーを務めるトーク番組で、文学、美術、音楽、歴史、世界の地理、女性問題、中国の紹介、宗教、時事問題など、偏りがなく広範囲の情報を提供した。毎週金曜日には、「中国」をテーマとしたトークが繰り広げられた。

 もう一つの名物番組が、毎日21~23時に放送された芸術音楽番組であった。これは、グロボワが解説をしつつ、芸術音楽のレコードをかけるという内容だった。1935年9月からは、毎日特定のテーマを掲げた「レクチャー・コンサート」形式をとるようになった。テーマは、特定の作曲家(「J. S. バッハ」「サン=サーンス」「チャイコフスキー」)や、ジャンル(「バレエ」「室内楽」「協奏曲」)、音楽の性格(「叙情性、古典性、幻想性」「スラブの感傷性と叙情性」)など切り口が多彩で、選曲もきわめて幅広かった。

 FFZの放送は、上海に住む多国籍の人々に、リヴィエールの談話を通じて深い教養にふれる機会や、多彩な音楽と出会う時間を提供した。放送は、戦乱期の上海でも日夜続けられ、終戦後もしばらく続いた。

井口淳子 森本頼子

 

©︎ JSPS科研基盤B上海フランス租界(1849-1943)の文教活動に関する多言語で領域横断的な研究(24K00102)

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